24min/h

アニメ感想置き場;よろしくお願いします

「やがて君になる」第六話について

       演出の暴力に圧倒された。
  簡単に言えば「やがて君になる」第六話感想は以上です。
  詳しく言えば、演出の暴力に完全に圧倒された。ということです。
  比喩的に言うと演出家と視聴者の関係性は料理人と空腹な客の関係性に似ているのではないか。お腹がすいたときに人間が本能的に脂っこいものを食べたくなるのは、カロリーの高いものに生命活動に必要なエネルギーや熱量が高いからだ。そしてアニメの場合、カロリーの高いアニメも視聴者が本能的に見たいではないかと自分がそう考えている。そこでのカロリーとは基本的に視覚と聴覚に生理的刺激を与えられることを指している。もちろん、そのカロリーの高さはアニメを評判する唯一の標準にならないが(料理も脂が多いほどおいしくなるわけじゃないように)、ある程度で視聴者はアニメを鑑賞した後の疲労感に繋がって、そして疲労感(満腹感)はある意味で解放感と満足感といった感覚をもたらせる。
  やがて君になる第六話はまさにそういうカロリーの高いアニメの優れた一例です。

https://ws1.sinaimg.cn/large/006aVr9xgy1fyptv0nhimg30g0090x75.gif

 

 
  まずは構図の話。こういう転倒的な見せ方が珍しいと思う。言うまでもないが、人物を画面の一角に据えるとか、キャラクターの心情を隠すのを狙って意図的に顔の一部を見せないとか、天然的にフラットの傾向を持つアニメーションにはそのような表現手法は多いと否定できないところがここでのこうした構図は人物の動きの勢を合わせたという独特性がある。見れば分かるがこのシーンは三つのカットで組み合わせたものです。佐伯先輩が奥行き方向から左向いてさりげなく歩いてきて侑に近寄って、この時佐伯先輩の顔はフレーム外で見えない(侑は顔を下げているので佐伯先輩の顔が見えない)。ここで彼女の口調が一変し、身をかがめて冷ややかな声で「私が無邪気に信じてるとでも思った?」とごく近距離で侑に囁く。そしてクローズアップ。

f:id:rocefactor:20181231134703p:plainf:id:rocefactor:20181231134816p:plainf:id:rocefactor:20181231134840p:plain

  ここで観客を強く魅了したのは二重の意外性。つまり圧倒や警告といった意味のある構図の意外性とキャラクターの複数の側面がぶつかって、元のバランスが破壊されたということです。「完璧」な生徒会長の七海燈子の親友である副会長及びその立場に伴った柔軟性、そして誰にも見せない、誰にも教えできない片思いに苦しんでいる百合キャラの残念さは佐伯紗耶香というイメージの両輪。なので、彼女の隠した侑に対する妬みがしとやかな先輩という仮面の裏側から滲み出たとき、やはりこのような正気じゃないと思わせる構図は必要だと思う。恐らくこの会話が始まった以前、佐伯先輩が自分にある不満を持っていると侑も察していたんだが、このきっかけで初めてその不満の正体が少なくとも単なる燈子に対する友情ではないというのを段々わかるようになるだろう。 

f:id:rocefactor:20181231135023p:plainf:id:rocefactor:20181231135040p:plain
  ちなみに、「桜子さん」渡部周絵コンテ演出回である第七話にはこのような構図があった。「やがきみ」第六話は全体的にあおきえい氏の演出個性の濃い回だが、Aパートは渡部氏によるデザインが見えると考えられる。
  Bパートに注目したいことが多く、燈子と侑の関係性の描写にはいくつか演出上の特徴が見られる。あおきえい演出作と言ったら、一番早く思い出すのはやはり橋ではないかと思う。なぜ橋なのか。橋は河川、湖沼、海峡、凹地などの上を乗り越えるために建設される構造物である。世の中橋がたくさんあり、桁橋、トラス橋、アーチ橋、ラーメン橋、吊橋、斜張橋など様々な形で人の住む地域をつなぐ。人々は橋を渡って誰かと出会い、誰かと別れ、そして物語が始まる。そのように捉えられた橋は世界の片隅であり、投影された人生という劇の舞台でもあるだろう。

f:id:rocefactor:20181231135245p:plainf:id:rocefactor:20181231135302p:plain
  概括して言うと橋に二つの構成要素がある。それは通路を形成する床構造などの上部構造と橋脚、橋台などの下部構造。第六話の場合、橋脚がナメモノとして、カメラの遠近感を意識させた構図が印象的で、ナメモノでありながら二人の間の隔たりとしての象徴物の作用もわかりやすい。上の画像に上部構造は一見見えないが、上部構造の実質は踏まえるために作ったものだと考えればこの場面にある飛び石はその構造が抽象された結果だと認識できないかと自分が勝手に思う。
  それからこのシークエンスを全体的に見よう。ここではツイッターの再掲:「橋・ナメモノ・夕暮れ時の色変え、電車のタイミング・キーセリフを合わせたライティングは陰影に富みながらダイナミックでむしろ暴力的でした。フィルム内の奥行き感そして空間関係の変化による内面までの描写は心憎いと思わせました。」字数制限があるのでツイッターではこれぐらいの感想しか書けなかったが、概ねそういう感じだった。もっと詳しく語りたいのは音声演出と光の配置です。

f:id:rocefactor:20181231135429p:plainf:id:rocefactor:20181231135445p:plain

f:id:rocefactor:20181231135507p:plainf:id:rocefactor:20181231135523p:plain
  上のシーンは今回の見せ場であった。侑の忠告を聞いたら、転身して微笑んで体中の血液が凍るような口で「そんなこと、死んでも言われたくない」と言った燈子。侑の話が終わって、モノローグが始まる前、遠くから踏切の警報音はかすかに風に乗って聞こえてきた。そして燈子が沈黙してから「そんなこと」を言うまで、踏切音が大きくなって、ついに堪えられないほど大きくなったが、「そんなこと、」が出た後一瞬で消え、金属的な冷たい残響だけを耳の奥底に曳いた。そして決めセリフともいえる「…死んでも言われたくない」、また電車が急に現れ、走行音が鳴り響いた。この一連の音による演出が緻密かつテンポよく、凄まじく琴線を揺り動かして、自分が初めて見たとき文字通り息をするのも忘れた。
  次に注目してほしいのは光の配置です。配置というより、対比による精神的な何かの影響を与える過程が繊細でいいなと思う。空がたそがれているときに、硝子のように澄んだ大気が昼の熱量を失っているが、間もなく消えそうになるからこそ淡いながら日差しははっきりと照りつけている。つまり夕暮れ時は一日に最も昼と夜を同時に感じさせる時間だと自分がそう感じる。なぜこのシーンが夕暮れ時に発生したのかと聞くと、もちろんそれは放課後の時間だからというのは反論し辛いが(笑)、自分にはそれはこのシーンのコアである矛盾は二つの燈子のイメージがあるからだと考える。燈子は亡くなった姉の真似をして他人から見ると八面玲瓏の何でもできる人のようになる一方、自分が好意をいくらでも示しても淡々と反応していた侑に甘えてしまい、病的な一面でも持っていた。侑はその弱い面だけを見て心配していて、無意識にその強い燈子もまぎれもない燈子の人格の一部である事実を無視した結果、燈子にとってもはやタブーとなっていたことを冒した。そこで夕暮れ時の空気感と輝きは電車が日差しを遮ったことでハーモニーを失って、同時に燈子の中に存在した各内面の隔たりを強引に強調した。
  一歩進んで深めて考えると、「やがて君になる」第六話には二元対立となった関係がいくつあった。佐伯紗耶香の葛藤とか、七海燈子の自我認識とか、対話の橋を象徴した飛び石と境界線を象徴した橋脚とか、あるいは燈子の寂しさと侑の寂しさという最も重要な差異とか、とにかく思いを巡らせる一話だと自分がそう考えている。「やがて君になる」という優秀な作品について書くべきのはまだまだいくらでもあると思うのが、今回はこれぐらいにします。