後半で延々と「許せ、許せ」と繰り返してはいるものの、スカーレットが天へと昇り、運命のウテナへ向かうその途上、どう見ても『千と千尋の神隠し』にしか見えない花園の秘境を通り抜けていく場面に、どこかでまだ釈然としていない細田さんの姿に気づく。心の平穏と調和を求めて、いまもなお走り続けているのだとw。
CG 技術のおかげで完成度は極めて高く、場面は壮大で緻密、「風土」からして、劇というよりむしろゲームに近い。しかし、台詞の混乱、登場人物の唐突さ、キャラクターの反応ではなく「強い」って言わせて敵の強さを示すなど、観客への不信と非現実的な要求の同居といった点は、ある種の劇形式に寄せようとして行われた暴力的な編集の帰結にも見える。
文章運びと物語構成という意味では、破綻の最も多い細田守作品だが、それゆえにこそ東映出身演出家ということが最もはっきりと伝わってくる一作でもあるのでかなり好きなところもある。この矛盾はひたすら先鋭化し、クライマックス前の一瞬、その崇高としか言えない俯瞰カットについに沈黙と余白の境地に至り、浮華のすべてが剥がれ落ちたあとに残る、絵描きとしての橋本カツヨの地色を垣間見せてくれる。思わず胸を打たれた。――と思った直後にその幻が霧散したが()。
物語について言えば、観ていて苛立つところは多いけれど、その天真さを受け入れるなら善意の解釈はさほど難しくないが、問題は作中の「悪」の混乱である。作中には、説明不能な純粋な偶然の悪が確かにあった。しかし細田さんはこの点に答えを与えず、復讐の相手は結局『ハムレット』に出てくるような、文化的に識別可能な敵のままである(しかも西洋的な題材ゆえ処理も特に冴えてはいない)。
この種の「悪」に対しては、正当防衛か自己犠牲か、選択肢はその二つだけに見える。前者を選べば、復讐そのものを捨てた理念の前では偽善めく(進行中の加害だけが阻止されるべきなのか?)。後者を選べば、やや中途半端なガンディーのようになる。そして実際の描写はその両方を混ぜ込んだような形になっている。とりわけ、主人公が弓を構え、宮廷道化のような気配(ある意味で道化は純粋悪の媒体になりやすいが…)をまとった敵の襲来を、説明不足な純粋悪と結びつけて描いたところは、ひときわ奇妙だ。
こうした「定義」の混乱が、作品の主要テーマとして設定された「道徳」もしくは「愛」そのものの混乱へとつながっている。最終的な出口は、敵の性質にも、復讐するかどうかにも、正当防衛か同態復讐かといった問題にもなく、「憎しみを手放し、自分を解放すること」に置かれている。おそらく細田さんが本当に語りたかったのはこの一点だけで、だからこそ前半の諸問題の処理は粗雑になったのだろう。
思い出されるのは、民間伝承めいた「地蔵菩薩が『われ地獄に入らざればだれか地獄に入らん』と言う」話である。百人を救えるのなら、殺生すら辞さないということである。イエスは「左の頬を打たれたら右の頬を差し出しなさい」と言った。ところが細田さんはこう言う。「左の頬を殴られたなら、殴り返すべきではない。加害者は翌日、当たり屋をしに出かけて車に撥ねられ、その結果、彼によって死ぬはずだった百人が救われるのだから」と。
天道っていうのは、果たしてどこにあるのだろう。
