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アニメ感想置き場;よろしくお願いします

「夢・想」について

  明けましておめでとうございます。大変お世話になっております。今年もよろしくお願いします。

  2019元旦快乐。新的一年希望能认识更多有热情有能力的同好。祝各位的行动力和实力更上一层楼。

前書き:この記事の元のタイトルはSSSS.神学政治論だったんですが、書く途中で自分の日本語は哲学を語れるレベルではないと悟って自重しました…
  人には夢がある。
  辞書によって夢想という単語に三つの意味がある:
  夢の中で思うこと。また、夢に見ること;
  夢のようなことを取り留めもなく思い浮かべること。空想;
  夢の中に神仏のお告げがあること。
  自分から見ると、夢想と名付けた第九話にはこの三つの意味どれも持っていたが、どれも外れていた。
  確かに第九話の展開は主に裕太たちの見る夢の中に発生したことだが、そもそも目覚めている裕太たちの住む町はアカネが怪獣を操って作る町で、ある意味今までこのストーリー自身はアカネという神様の勝手な夢に過ぎない。そこで第二層の解釈に進んで、つまり、タイトルはこのエピソードの内容がアカネの空想ということを示した、というのは間違っていないんだが、ここでまずアカネの身分を考えてみれば、彼女はワガママで淋しい神である。だというなら、ある意味で裕太たちが夢の中でアカネという彼たちの神のお告げを受けるという解釈も受け入れられるかもしれない。しかし、この三つの解釈を揃って考察すると問題が発生した。その致命的なエラーは、神様の空想は決して作り物の夢と同等なものになってはいけないというルールが違反されたということ。アカネが自ら作り上げた夢の中で、作り物のはずだった裕太たちの意志に耽っている。彼女はお告げをやるという道を選択しながらも、自分自身の夢のコントロールを自分以外の誰かに(よりにもよって自分が作った誰かに)任せて、自分の行為と神様である身分が矛盾した。その結果、神様は神様の夢に神の正当性をあきらめて、自分の立場から大きく乖離した。終盤でグリッドマンは言った:「だがまだ一人目覚めさせなければならない人間がいる。」自分にとってこのセリフは新条アカネが神の位置を喪失し、一人の人間となったことを示唆したのではないかと思う。
  くどくどしていてすみません、ここは本題です:「グリッドマン」第九話は夢想というタイトルの裏に喪失という主題がコアなんです。あるいは、夢・空想の喪失と日常の喪失ということです。まずは喪失について考察する。記憶喪失とか、意識喪失とか、第九話及びグリッドマン全編において喪失につながることが多く、キーワードとも言えるではないかと思う。物語の構成についてなぜ喪失が必要なのか、そしてキャラクターたちは何かを失ったゆえに何かが得られるなどのテーマが個人的に興味深いと思うのだが、脚本分析が苦手なのでここは表現の話に集中していくつもりです。つまりどうやってその喪失の必然性を予感させるのかという話です。

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  裕太たちがアカネにとって理想的な夢を見ていた。夢の中で彼たちはアカネと仲良くして和やかかつ幸せな日々を過ごしていた。しかし、裕太たちが目覚めてこれは夢だと認識したのは、そのアカネの意志で歪んだ日常には何かが足りなかったから。すなわち、アカネの定義した理想的な日常と裕太たちに対するやるべきことは噛み合わなかった。具体的に言うと人間である裕太たちにとって肝心なのは友達がいるかどうか、街の人を守るかどうかといったことで、明らかに神様であるアカネの考え方と方向性の差があった。画面上、その何かが足りなりということは直観的で感じやすい。つまり奥行きと躍動感が足りないというわけです。植物も周りの景色もみんなシルエットの形で見え、もともとナメモノになっていたはずの墓碑はナメモノというより画面分割の作用をしていて、さらに裕太がフレーム外へ駆け出した後、ほとんど寒色系というかとにかく冷たく感じられたものだけが残ったことでいろんな仕組みによりバイタリティーがなくなるというか、または夢は夢ではかないという印象を練り上げた。総括的に言うと「グリッドマン」の演出方針に「新世紀エヴァンゲリオン」から受け継いだ文脈がよく感じられるが、このシーンのインスピレーションで一番思い出させたのは細田演出のイメージではないかと自分がそう考える。

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  演出の文脈ときたらひとまず全体の流れを見よう、自分がこのエピソードにある踏切警報灯とクレーンに気に入った。

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  左の警報灯のアップは同ポで何度も示した。別に深い意味など持っていなかったと思うのが、手描きタッチを残した原画と独特な画角は質感の表現に秀でてこのカットだけで見返したいし、ストーリーテーリングのテンポを変化に富むようにさせていたのも腐心が感じられた。そういうの言うとやはり一番鮮明に浮かんでくるのは「ダーリン・イン・ザ・フランキス」第五話で高雄統子氏の演出法だが、いったいどうなのだろうか。次は右の画像の話だけど、クレーンというより怪獣のイメージが強すぎて初めて見たときおっ、こっちこそ本物の怪獣かなあとなった。実際なところこのカットから夢の中の日常が潰れ始まってシュールな展開になっていった。そういう表現の歴史を遡るのは難しいだろうが隠喩的な様式美はまたアニメらしい。
  前記した通り第九話の急所は空想の喪失と日常の喪失であることで、これから日常について考えていく。普通なら日常を表現するには手段がいくらでもあるけど、第九話の場合、スケールが大きいので日常を示すには難易度がかなり高いと思ったが予想以上の完成度でその夢の光景が成り立った。それを実現したのはバンクと同ポの使用ではないかと自分がそう考える。すなわち事実上の画像素材の再利用により日常らしい繰り返しまたループ感を表現すること。映像には思いと記憶の重さがある。激しい戦いシーンじゃなく一見あふれた日常の断片が二度だけで再現すると観客の注目を集めさせられるのは、観客が本能的に異なることを見つけようとするから。なぜ短いテレビ番組枠でそんな繰り返していることを見せるのかと疑問しつつ見ている観客の中で一度忘れた記憶あるいは初めて見たときの感情が再び特定の映像を見ることでよみがえ、新たな感動を生み出す、というのは兼用の魅力の一つだと思う。

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  では、なぜ第九話のアカネと裕太たちの三つの付き合いの再構成が新鮮なのか。答えは違いということです。つまり、第九話において明らかに前の話数にもあった「新しい日常」は不完全な形で再演したこと。確かにカメラの位置など形式的なものが変わらなかったけど、その変わらなかったカメラに写された世界観を醸成する情報は何もかも異なっていて違和感をもたらした。まさに夢想のような日々であった。その歪んだ日常に元の世界の雑音が裕太たちを呼び起こして、一度切り離された観客とキャラクター達のつながりがその元の世界に戻すという予定調和の予感でより強めていき、共感を呼んでいた。裕太たちが夢から逃げ出すための走りシーンはそこまで高揚感があるというの一つの原因がそこにあったと自分が考えている。もちろん、五十嵐氏による背動カットもすごく迫力的で目に焼き付いた。
  第九話について語りたいことは以上ですが、考え直したらまだいろんな注目すべき点があって、もっと詳しく書こうと思います。時間の都合で今回は無理ですけど、次のチャンスがあれば日常・ループ・時間の関係性について考察したいです。