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神の誕生と崩壊した弁証法、『地球外少年少女』について

脚本における単語レベルの意味合いの遷移・連続の遊戯、作画におけるそれぞれの身体パーツのあいだに絶えず波動する諸力からなる織物、撮影における質感表現へのこだわり。クリエイターとしての磯光雄の思考は、あえて一言でいえば物質的だ。扱う対象・概念を物質的に把握し、その最小単位を析出して自由自在に改造して、映像表現を構築していく。冷徹に対象を分解させ、高度な知性操作による創作、こうした磯の姿勢が極めて魅力的だった。

そして今回、演出のレベルでは、モノとして利用されたのはフレームである。『地球外少年少女』はアップが多い。なぜならフレームの外にはそのカットで示された状況を一変することのできる情報が隠されている。こういうフレームの情報と運動に対する意識的な操作は本作のテーマにも関連する。

 

「地球外」という一見開放感のあるタイトルにもかかわらず、ほとんどの内容は封鎖された宇宙ステーションにおける出来事である本作において、カメラはアップからはじまり、後退あるいはパンして、もともと存在しない外側の内容を引きずり込んで新たな図形を形成する。それは画作りの意味での、「外へ出る」と「自我進化」だということはわかりやすい。

しかしなぜか、終盤のサイバースペースにおいては、運動が放棄されたように見える。キャラクターらはずっと画面の中心部に静止して、AIと哲学的な会話をする。AIの思考は人類の言語を超えたとともに、本作の画作りも運動ひいては映像そのものを超えたと思わせる。確かに背景には運動する粒子風がある、しかしその背景はまるで存在しないように精神体の主人公たちと平行し、互いに作用しない。まるで騒音のようなものだ。

誰よりもアニメの変化に熱心で、運動を作る天才、磯光雄はそうした運動のない映像を作った理由はなんなのか。単に宇宙空間・精神空間では重力が弱いからいわゆる力関係を重視したリアル作画に向いていない、あるいは制作周期や全六話の尺は足りず映像表現にも影響が出た、といった理由では到底思わない。

 

ここでは一旦シナリオに注目する。『地球外少年少女』の表層的な物語は、スラヴォイ・ジジェクの議論を通じて『逆襲のシャア』とつながっている。例えば、かの環境活動家の16歳少女、グレタ・トゥーンベリの幼稚な主張に対して、われわれは一体どのような態度をとるべきか。温暖化を始めとする全人類の危機に、普遍的な懐疑論は、本当にグレタによる盲目的ドグマチズムよりも有益なのか。決して否定すべきでない危機の可能性を、日常を過ごしたわれわれは無自覚にも絶えず否定しているのではないかとジジェクは言う。

確かにグレタは幼稚で、彗星で三割の人類を殺処分する方案・テロリズムに近い。しかしそれこそ否定に対する否定である。こうした絶望な状況を前にして、磯が考案した方法はむしろ折衷的と言ってもよい。彗星による襲撃は嘘で、生配信やネットの発信力を用いて地面に住んでいる人々の宇宙移民を加速させて、50年以内で目標を達成する。

しかしこの折衷的な方法は、失敗したように見える。それは、磯は逆転しようとしたある構造はあまりにも強固だったからだ。前述のようにグレタ的な危機は本作の真実ではない。自滅を外に出たいという願望に置き換える。しかし外に出たいという願望の強度はある構造の強度を超えていない。

それは、宇宙ステーションという金属製密閉構造物の強度である。宇宙ステーションの強度は、中にいる人間を宇宙放射線、宇宙デブリ、窒息や凍死など危険から守られる強度であり、死と対峙する強度でもある。つまり、この窮屈な宇宙ステーション=ゆりかご=地球から離れて外へ出るという願望は外側=死という図式に対抗しなければならない。

そのような状況の中、『地球外少年少女』におけるもっとも強度のある一瞬は、那沙・ヒューストンというキャラクターが死ぬ瞬間である。彼女は主人公らよりも早く「外」に出て、自らの死を覚悟した。この瞬間は、人類は「ゆりかご」から離れることの必然的結果にほかならない。結果、相模登矢が唱えた、人間が生活すべき宇宙は死にほかならず、「人類は宇宙に生きるべき」というのは、ほとんど「われわれはいずれ死ぬ」の同語反復なのではないか。

人類はそもそも「外側」に生きられない。あるいは、そもそも最初から人間は「外側」に生きているのではないか。注目すべきなのは「外側」と「内側」の弁証法ではなく、むしろ「外側」は均質で単純なものではないという事実である。つまり、「地球=内側」と「宇宙=外側」という二元論を超えるのではなく、そもそも地球も宇宙にある惑星のひとつで、宇宙尺度から見ると薄い大気層も絶えず宇宙空間と物質交換を行っていることを思わせることも可能なのではないか。

呼吸して生きる限り、人間は宇宙には生存できない。たとえ呼吸をやめてあらゆる器官をAIの力を借りて改造して宇宙の環境を適応したら、それはもはや人間ではなくなる。そして作中ではAIは問う。「人間は何」と。なので、彗星襲撃という陽動作戦の下に、磯が考えたのはむしろ人体改造の倫理の問題なのではないか。

それは、映像にとって致命的だと思う。願望の強度の欠落は表現の無力感につながるとしたら、裸になってサイバースペースを浮遊する少年少女にはもはや改造の余地が与えられていない。契機も、動機も、綺麗で清楚な肉体の前に消えていく。

 

しかし、このままでは、議論はまだ不完全である。

やはり分析の起点をもっと遠くに設置した方がよい気がする。具体的にいえば、誰よりも運動と変化に敏感するはずの磯光雄はなぜ運動を消滅させ、純粋な思考者として作品を手掛けるのかという問題意識を踏まえて、サイバースペースにおけるAIのイメージやモチーフをイコノグラフィー的に考察していきたい。つまり、静止の理由をイメージの設計に伺えるという試みである。

ここで、端緒となるのは、黒い球体AIとAI・SEVENのイメージはいかにしてつながっているのかという疑問だ。

黒い球体はまず、『天使のたまご』の冒頭にある巨大な球体蒸気機関を連想させる。心理学者グスタフ・フェヒナーは1825年に偽名で書いた文章『天使の解剖学』*1では、人より上位な生物を天使と名付け、動物と人間の頭蓋骨の形や両目の位置関係の発展を論じる。19世紀の人から見れば、太陽があっての目は光の通路であり、眼球も太陽と同じ球体構造になっている。フェヒナーによれば、天使という上位生物には、頭の真ん中に一個だけ、動物器官の中で最も自律で幾何学的にも完璧な器官、すなわち眼球がある。そして天使の身体組織はすべてこの真ん中にある目の視覚神経の塊を中心にして成長し、最終的に光の充溢する球体生物になる。すなわち、天使=目=太陽だという図式である。天使という概念に纏わる二重性は、視覚器官である眼球と、視覚を成立させる太陽である。

『地球外少年少女』における知能解放された「上位生物」である球体AIには、そのような天使の隠喩があるのではないか。ここでは、AI・SEVENのイメージを参照したい。もし黒い球体AIのイメージは眼球だとしたら、おそらくAI・SEVENのイメージは望遠鏡である。その多層平面・レンズからなるイメージは、宇宙を認識する道具=望遠鏡を示しており、宇宙開発時代における人間の発達した視覚の物質的延長を意味する。

重層的なレンズは光の経路である。それは第一の意味で、眼球の光学的メカニズムに近い。そして第二の意味はキリスト教の象徴体系にある。西方キリスト教美術の主題の一つ「受胎告知」において、ガラスの瓶のモチーフが多い。周知のように、「受胎告知」とは処女マリアに天使のガブリエルが降り、マリアが聖霊によってキリストを妊娠したことを告げ、またマリアがそれを受け入れることを告げる出来事である。その場面において、ガラスの瓶は処女懐胎のマリアの象徴である。聖なる光がガラスを壊すことなく通過して、それはまさに聖処女の貞操に等しい。こうしてガラス瓶と望遠鏡のレンズが光の経過・太陽の通路の特性を共有する。 

つまり、もし黒いAIは天使の象徴であり、AI・SEVENは人類を超えた超越的な知能・新たなる神を孕んだ聖処女マリアの象徴であるとすれば、『地球外少年少女』の終盤の神秘的な場面は、一種の「受胎告知」のモチーフの機能する場であるかもしれない。人間の言語を超えたAI・SEVENの周りに繊細な色彩の変化もまた天使の言葉は色彩であると言うフェヒナーの文章を想起させる。少なくとも、宗教の起源と科学の限界を示唆する『地球外少年少女』において、知能解放した球体AIとAI・SEVENの共通性は神性であるというのは決して強引な解釈にならないのではないか。

こうした遠回りの後、ようやく、終盤の運動の消滅をある程度解釈できる。キリスト教的な神性を獲得したAIと会話する登矢や心葉もまた、キリスト教の特徴的な瞑想的で観念的な形でコミュニケーションを行う、というわけである。



*1:この部分の考察は主に田中純先生の著作『イメージの自然史―天使から貝殻まで』を参照。