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「縮みゆく人間」論

(前略)

ジャック・アーノルドの「縮みゆく人間」(1957年)について論じるために、まずロジャー・コーマン監督によるSFカルト映画「X線の眼を持つ男」(1963年)を短く参照したい。

「X線の眼を持つ男」は、POVショットの多用やLSDの効果をシミュレートするところにおいてサイケデリックな性質を持っている。それはある意味で、ビジュアル芸術家のパウル・シャリッツによる実験作「Ray Gun Virus」、「N:O:T:H:I:N:G」、「T,O,U,C,H,I,N,G」といった、いわゆる構造主義映画と共通した文脈を有している。つまり、「X線の眼を持つ男」における視覚に対する思考と表現は、60年代のフォーマリズム美学の絵画から映画などの隣接分野への拡張という時代の感性と同調するものだといえる。

偶然にも、「縮みゆく人間」における機械的リズムで落下し続ける水粒を受け止めるシーンは、リチャード・セラの映画「鉛をつかむ手」(1968年)を強く想起させる。セラによるこの映画は、フィルムストリップが映写機を通過する過程を模倣し、イメージのフリッカーする感覚、ひいては映画の創成期の経験につながっている。このような意味において、「X線の眼を持つ男」と同じく、60年代の実験映画との関連性を意識しつつ、「縮みゆく人間」という映画における構造主義的感覚を強調し、この作品を映画というメディウムの還元的経験の文脈の中に回収することができるだろう。

 

しかし、こうした同調とは異なった、時代的状況の数歩先を行く反応は、まず「縮みゆく人間」のテーマ性において見て取れる。1957年に公開されたこの作品は、アメリカの美術批評の場ではモダニズム批評の苛烈な還元主義が圧倒的な存在感を獲得し始めたところに、むしろポストモダニズム、もしくはポストヒューマンの考え方と呼び合うように見える。人類と他の動物と異なり、生まれつき成熟した体型や先天的行動パターンを持たないが、その分可塑性と言語の発達力を獲得したという50年代中において生物学から宗教学に至るまで風靡した信念を考えると、その先見性はより一層不思議だ。

確かに、日本の怪獣映画の元祖だとされた特撮映画「ゴジラ」(1954年)のように、戦後の世界では、原子力をはじめとした、現代科学の制御不能な側面に対する警戒的思考、およびこのような反省に応じた作品はよく見られるだろう。しかし「縮みゆく人間」の独特の点は、その科学技術に対する反省からポストヒューマン的な思考への移行である。この作品においては科学中心論、男性中心主義、現代的生活と家庭構造といった概念の相互近接は明らかであるが、これらの概念群の崩壊過程は爆発的ではなく、むしろ幾分未練が感じられる。そのような雰囲気の中に、緩慢であるが確実に進む前半の物語のテンポはもはや残酷である。科学・医学を信じながら疑うという矛盾の中に繰り返された希望と失望の反復の果てに観客・語り手としての主人公に待っているのは、生き残るために戦い続ける原始的なサバイバル演劇、あるいは情動=受苦による人間の価値そのものに対する再確認ではなく、人間という価値観と世界観を放棄し無限である宇宙へと転身する姿勢なのである。

このような構成はもはや自己否定的でトリッキーである。実際、ある種繰り返された自己否定・自己更新のモチーフこそが作品の複数のレイヤーにおける特権的な要素となっている。

例えばマクロな事例として、冒頭において半裸で日光浴を享受していた主人公はその後、スーツ姿を中心とした現代的、西洋的な典型像から、体型の縮小と伴い原始的で無国籍な服装を着ることになり、そして終盤になって自己と宇宙という超越的で非人間性な存在との同一化によって、その原始的な服装ももはや本質的人間性の意味を失ったと考えてもよいのだろう。

さらに、映像構成というよりミクロな次元では監督者の傾向やカット割りの感性がより明らかに出てくる。妻と病院に行き、検査の結果、自分の縮小が放射線と殺虫剤の変異によることだとわかったシークエンスのショットに注目したい。妻の言葉にヒントされ、「霧だ」と半年前の経験を想起した男のアップのカット割りのタイミングは切り味が鋭いだけでなく、くどくどと自分の社会人としての立場が放射能とは無縁だと主張していた一つ前のショットでの彼の顔とはまるで違った顔がアップで捉えられている。この唖然とした表情と眼差しは、すでに彼の社会人という表層の中に包まれた孤独でありながら旺盛な生命力のイメージを示唆しており、さらにその生命力が最終的にたどり着く神秘への瞬間的な悟りにつながっている。本作で主役に抜擢されたグラント・ウィリアムズの好演の魅力を最大限にした演出である。

こうして考えるとやはり画作りの諸要素をより具体的に検討しなければならない。フォーマリズムほどではないが、本作の画面構成・映像の組織方には興味深いところが少なくない。メーキング映像によれば、ジャック・アーノルドのミザンセーヌにはイメージボードという中間段階が重要である。例えば猫に追われるシーンという厳密な連続性と緊張感が求められたところでは、事前に紙上に計算された構図とタイミングは撮影に大きく寄与したことがわかる。こうした計算はカメラアングルや道具の配置といった技術的精度を上げて、舞台装置の感覚の強い本作において、微細な調整を意図して実現したと思われる。

ここでは具体例として、カメラアングルと階段の利用を考察してみたい。本作において、ジャック・アーノルドによる室内空間感覚は、猫に追い詰められて転んだ主人公の隣に出たケイブルとテーブル脚など、様々な道具的配置に対する活用からわかるが、やはりカメラアングルと階段という二つのモチーフに集中しているように見える。

病院から戻り、身体の縮小はもはや隠し切れない段階に入った(00:16:36以降)主人公は、サイズの合わないソファーと椅子に囲まれて、俯瞰的なアングルでカメラに捉えられている。孤立無援な状況に陥ったという意味合いはよく伝わるが、肝心なのは解毒剤が見つかったからの、地下室の階段を用いた妻の肩越しショットだろう。解毒剤が見つかったときだけ、主人公は高いところに戻る。これは縮小から初めての主人公が上位に配置されたショットであり、現代医学=モダン的社会への信念に賭けている彼はこのようにかろうじて主人という男性主義的な立場を守っている。

これまでの上からの捉え方に抵抗するような配置は、ストーリーの一つの転機であり、一つ目の自己否定だといえるだろう。しかし、この自己否定の構造はミクロなレベルで反復される。下から主人公を撮る構図がもう一度あらわれたとき、彼の縮小は一段と鮮明になっており、人間同士との対峙はすでに不可能な彼は、現代的家庭生活の象徴でもある猫に襲われ逃げ回るようになった。この二つ目の仰視的構図は、一つ目の自己否定をさらに否定して、前景にある階段はもはや愛し合う男と女の架け橋ではなくなり、主人公が絶望的な窮地に宙吊りにされたことを物質的に表す深淵と変貌したのだ。

上記二つの仰視の差異における断絶を予感させたのは、人間の範囲から離脱して、ミニチュア的なハウス模型に住み込むようになったシークエンス(00:30:50以降)における階段のトリックである。このシーンにおいて、地下室の階段ではなく、二階とリビングルームをつなげるメイン階段が使われており、体型差と場所変換のトリックが意図的に設計されたのである。シークエンスの最初には、模型の外からの説明的ショットがない。そのうえ、模型内の階段と実際の階段の色合い・角度の一致や、男が階段を上る・女が階段を下りる途端というモンタージュのタイミングの選択から、混乱感が意識的にもたらされる。このような視聴者の心理状態に対する計算またはある種のユーモアに、演出者の存在と意図が明確に浮上しているように思われる。

後半、43分から53分までという十分近く間に、セリフが一切なく、舞台演劇のような芝居と音響演出により映像が構成された。予備動作、躊躇なく行動に移す瞬間、試行錯誤など、生きるための行動を細部まで仔細に捉えているこの地下室のシークエンスはフィルムの全体のイメージを特徴づけている。この部分は厳密に言えば猫に襲われ家の模型から逃げ出したシーンから始まったのである。なぜならそこからいきなり背景における絨毯や木造家具の細部が実在感をもって表現されたのである。主人公の決定的な縮小と伴い、新たな段階に入った物語がそれまでとは大いに異なる世界観の表現を獲得した。にもかかわらずその断絶にやはりある種の道具的、物質的な思考の連続性が見て取れるだろう。フィルムの前半における室内構図と家具の配置と同様に、ミクロな世界に入った主人公の周りに、一個一個と識別可能な物体がある。マッチボックスから機械的に落下する水、さらに絨毯上の凹凸まで、ちゃんとした個体としての物質は彼の空間を占め、身体性の強い動きの舞台・背景となす。

また、これらの物体はその識別可能性を持って、ファンタジーもしくはSF的な世界観により一層リアル感をもたらしているのではないか。冒頭において、核実験により形成された放射線霧に巻き込まれた主人公の体に、無数にきらめいたほこりが付いているが、それは特撮技術の粗さとのつながりだけでなく、初期映画の粒子的運動というスクリーン経験をも想起させるだろう。そしてこの技術論的映像経験の文脈の本作における到達点は、おそらく孤独の恐怖を直面しようとした主人公がマッチを抱えて擦る瞬間だろう。散り飛ばす火花はまさに粒子的運動をした。これを通じて、初期映画の物質的危険性と映画館の火事経験という映画文化の原点に近いところにある記憶をジャック・アーノルドが召喚している。

写真術・映画という爆発のメディウムはこの瞬間において、火の利用から原爆までの人類の技術史・勇気の歴史の象徴となった。そして結びに、人間としての尊厳を取り戻したが、「鳥かご」から出て、納得できたという心境で宇宙との同一化を選んだ主人公の語りにおいて示唆されたのは、技術・文化の結晶としての映画の超越的な自己否定である。

(後略)