24min/h

アニメ感想置き場;よろしくお願いします

風景から身体へ 押井守とうつのみや理について――

 

はじめに 

 「裏」「見ること」「読むこと」について考えたい。

 「裏」という概念は自立しない。人間にとって、対象物における目に見えるある側が知覚されるとともに、目に見えないある側の存在が弁証的に理性活動によって理解される。「表」があっての「裏」は、つねに言語的かつ抽象的にわれわれに認識される。そして、この表・裏の二元論の区別は、精神分析の知見では人間の五感において、もっとも二元論的な器官、すなわち目=視覚のメカニズムと対応するように思われる。見えるものは「表」になり、見えないものは「裏」になる。われわれは一枚のコインの表側と裏側を時系列的に獲得するわけではないが、それを同時に知覚することもできない。この意味で、「裏」という抽象的存在は三次元において機能する人間の二次元的視覚(網膜は多少弧度があるが)の根底にある他者である。見えないにもかかわらず、確実に存在する、存在しなければならない「裏」を「表」の世界に曝け出すことは、対象物の性質に対する徹底的な破壊にほかならない。極端な例として、かの有名な死体写真『接吻』が提示したように、一人の老人の二つの横顔が同一の平面、同一のフレームに同時に「表側」として展示されるとき、その接吻のイメージ・横顔の裏には何もない。それは、生き物としての人間の顔に対する否定・破壊を前提にした「裏の不在」である。そこから、あらゆる表面、あらゆる可視化されたイメージの「裏」に対する人間活動の根本的な欲望が浮上する。それはつまり、見ること、眼差しの暴力によって、イメージの裏を見極める企みである。

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 一方、視覚の対象物であるのは、厳密に言えば「表」ではなく、「表面」である。この「面」は素朴な弁証法の発生の場であり、根拠でもある。紙面、鏡、スクリーン、皮膚、あらゆる「面」において、それはいかに極薄であるにもかかわらず、「面」である以上、二つの方向性、すなわち「表」と「裏」が存在する。したがって、「裏」という概念は「表」という概念の逆として提示される概念という以前に、「平面」という境界線によって絶えず暗示されるものであるように考えられる。われわれは「裏」を見ることができないばかりか、「面」を除いて「表」を見ることもできないのである。眼差しは紙面を滑走する。その過程において眼差しはどの方向を向くことも可能だが、決して裏を持つ奥行きの方向には行けない。宮川淳がレヴィ=ストロースを援用し、シニフィエとシニフィアンの不整合から、芸術体験における超越的なシニフィエの不在を指摘したのは、根源的な「裏」の不在を示したとして理解できる。ここで、「読むこと」の意味が理解され始める。

 

 「読むこと」とはまず、「見ること」である。フレームによって規定された平面に投射されたイメージにしか眼差しを集中することができないわれわれにとって、「読むこと」と「見ること」が前述した限界を共有している。しかし、やはりこの両者は同一ではない。小林康夫は写真を読むことの可能性と写真を見ることの不可能性を考えた。小林によれば、日常生活においてわれわれはできる限り写真そのものを見ないような仕方で写真を見ている。つまり、「あるすでに与えられた文脈のもとで、その文脈の副次的資料(記録ないし情報)」として写真を読み、消費するのである。反してわれわれは写真をじっと見るとき、ひたすら光と影が織りなす物質的な表面そのものの質感を享受し、「その意味の行き着かない宙吊りにされた切断面の表面にとどまり、世界構成的な人間の眼差しが無為の快楽の方へと解体されかかる」危機と遭遇する。

 これは逆説的に、アジェによるパリの街路撮影はある特定の意味で受容することを要求しており、観客に作品へといたる道を探させるというベンヤミンの議論を想起させる。言い換えれば、写真とは、「見られる」という危険な状況を通じて、つねに読まれるものである。「裏を見ること」は超越的なシニフィエの不在によって絶望的で無駄な行為である。眼差しはひたすら対象物・被写体の現実性を保証する根拠の空位にとどまる危機に臨む。そこから逃れるため、われわれは無意識のうちに、「読むこと」を始めたのである。これはある種の自己保存の本能である。この空虚からの脱走において、「裏」があって、われわれがそれを読むということとは逆に、「読む」という行為により、読まれる「裏」が創造されたように思われる。つまり、われわれは誤読する。誤読によって、不在であるはずの「裏」を創造する。見ることは破壊的だが、読むことは生産的である。芸術家が無から作品を創造するわけではないように、われわれもあらゆる「本」を読むことによってその「本」を書いている。これは写真に限らない。モンドリアンによる『ブロードウェイ・ブギウギ』においても、デュシャンによる『泉』においても、さらに押井守による『機動警察パトレイバー 2 the Movie』における状況説明的な映像と意味不明の鳥群れの景色においても、このような危機、およびこの危機から脱走するための誤読が発生する。

 言うまでもなく、「読むこと」は必然的にある端緒が必要とされる。与えられた文脈なしに「読むこと」は始められない。その生産活動の根拠であり、端緒になるのは、個人経験という文脈である。また、その生産活動のはじめての実践の場はわれわれの身体である。現代人は身体を持っていない。様々な非人間的な他者を獲得した現代人がますます全体性のある身体、ある意味での作品を失っていく。失った部分を補完する作業とは、皮膚という身体の表面、身体を規定したフレームに注目したわれわれが、「見えない」身体の「裏」を「読むこと」によって想像し、再構築することである。すべての芸術活動、芸術体験において、このような自己認識の効果が発生すると思われる。皮膚という肉体の限界を成長によって拡張させ、または一枚一枚の紙面という本の限界を注釈によって拡張させようとした人間は、眼差しの届かない、無限に繰り返される「引用」の向こう側にある「裏」を求める欲望のもとに、「読むこと」を続ける。

 まとめておきたい。芸術体験において、「裏を読むこと」の可能性が存在する。それは、「裏」の性質につながる。われわれは、見ることのできない、言語的かつ抽象的にしか理解されえない「裏」を「読む」ことによって、個人経験の文脈に依拠し、超越的なシニフィエの不在という絶望と対峙する。この過程において、「裏」は誤読にしか存在せず、「裏を読むこと」もまた、「読むことがあっての裏」という倒錯の形で機能するように思われる。

 

風景=美術について

 映画批評の文化史において、風景は多義的で不可欠なテーマである。あらゆる細部に遍在する権力装置としての「風景」を、あるいは教育=馴致装置として機能し人間の思考を汚染する「風景」をいかに批判し超えるのかは1970年代の論者の問題関心の所在であった。*1

 1951年に生まれた押井守は青年時代に学生運動を参加した。そのときの「六八年体験」*2が思考を刺激し、のちの作品にインパクトを与えたと押井は証言している。押井が脚本を担当し、六十年代の日本を背景とするアニメ映画『人狼』の冒頭に、機動隊に火炎瓶や爆弾を投げ始めたデモ参加者が鎮圧されたシーンがあった。また、「東南アジア某国」に平和維持活動に派遣され、憲法の関係で自由に交戦できない部隊が襲撃で全滅し、指揮官である柘植行人が帰国し、偽りの平和を享受する日本にクーデターか内戦のような状況を引き起こそうとした「テロリスト」の復讐劇を描写した『機動警察パトレイバー2 the Movie』(以下『P2』)が1993年に公開され、押井は作品が湾岸戦争や自衛隊のカンボジア派遣に対する反応と公言している。しかし、このような政治的関心を積極的に作品に反映させる姿勢と逆に、押井作品は政治に対する意識を鮮明に喚起させながら、明快な政治的メッセージや主張に欠けている。『P2』において、柘植の襲撃によって深刻な社会不安が引き起こされたが、柘植は明確な政治改革などの目的を持っていない。押井作品は常に閉塞的な政治的状況*3、または虚構化した現実のリアリティを展示し観客を引き込むと同時に、登場人物の「政治的な不能性」に執着する。このような具体的な展開も主張も持たない空虚さは押井作品の基調になっている。「押井節」と呼ばれる長い台詞回し、または表層的な物語の展開と関係なく配置された犬、鳥、魚などの特徴的モチーフにはこの空虚さが包み隠されている。押井のアニメ映画に対する思考において、「涙を誘う人間ドラマ」のようなストーリーテーリングが最初から目標ではなく、感情移入をもたらす描写は映画のカギというよりむしろ一本の映画を成立させる必要最低限の根拠である。*4このような展開の空疎な状況性が演出上の構造は、押井の言葉を借りて言えば作品のすべてのエッセンスを持つ「タレ場」である。藤津亮太によれば、押井の映画とはストーリーではなく「間で語る」ものであり、「間で語る」だけの画面を構築している作品である。この「間」は「タレ場」のことであり、様々な虚構の風景として示される。*5

 風景は押井作品において特権的な位置を占める。押井による二冊の『演出ノート』において、風景に対する描写はつねに画作りの重心になっており、「風景」その言葉自体も繰り返し言及されている。政治思想次元の風景と映像表現次元の風景が押井映画において絶えずオーバーラップし、社会批評の水平線が背景美術の水平線と共有している消失点に「タレ場」として展示される。

 これらの「タレ場」は主に様々な都市風景・建築表現を媒介にしてあらわれ、そして複雑で工夫を凝らした背景美術によって表現される。『うる星やつら2ビューティフルドリーマー』における友引町の廃墟、『天使のたまご』におけるあるフランスの地方都市の写真を原型にした静謐な街、『機動警察パトレイバー』における近未来の東京の埋立地、さらに『攻殻機動隊』におけるアジア各地の要素を取り込んだSF風の都市など、これらの環境、そして環境における風景化した状況・状況化した風景に対する描写が押井作品の画作りの中軸になり、それぞれの作品の世界観を支える。

 前述通り宮川淳は芸術鑑賞における「見ること」を議論し、超越的なシニフィエの不在を指摘した。『P2演出ノート』において、モニターや窓の構図について押井はこう語っている:「現実の、そして映画内の空間に無数に穿たれた窓。自動車のフロントウィンド、鏡、モニター、水槽…それらは“窓”の向こうにもう一つの現実を覗き込む人間を描いた「P2」という物語を象徴する構図であり、そして“映画を見る”という行為そのものを象徴する構図でもあります」*6。この意味では、不在への意識は押井映画における「タレ場」の物語の空疎化とつながっているように思われる。見る・見られる、語る・語られる多重風景は絶えず自己言及の弁証法的な意味システムである。そしてわれわれが生きて、感じて、見ている世界がはたして虚構か現実かという究極的な問題を問う押井映画において、虚構と現実の区別自体が意味を持たなくなる。なぜなら現実そのものを保証する根拠がどこにもないからである。唯一無意義でないものは何の意味も持たない、眼差し、「見ること」の経路としてのファインダーやフレーム、すなわち見られる風景を映す「窓」である。それを介して、長回しのカット群で捉えられた町の廃墟や廃棄工場や天使の化石や巨大で豪華なフロート車といった、ある種のスペクタクル性を持つ被写体が緩やかに映画的時間とともに流れている。

 観客の眼差しにより流れる「映画的時間」。これについて、「街は、時の流れの中に沈んでいった無数の幻想を沈黙の内に語っているように見える。(中略)…その深い絶望が染み入るように伝わってくる。でも、もしかしたらそれは単に観る者の心を映しているだけなのかもしれない」と押井は考えた*7。なぜならその街の姿、「過去、現在、未来」という重層的な時間が持ち込まれた風景は「あくまでファインダーを介して作られた意図的なものである」。

 このような議論を裏付けた演出あるいは思考の方法論を確認しておきたい。

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 実写と違い、アニメは性質上、被写体を一から造形しなければならない特性を持っている。そしてアニメと実写の差は視覚情報量が質量ともに決定的な不足にあるというのは押井の持論である。もしアニメは記号的な表現を乗り越え、実写映画並みのリアリティを獲得しようとすれば、演出家が意識的に「符牒を撒き散らす」*8うえで、過剰な視覚的情報量を配置することによって、圧倒的な視覚効果と偶然性を実現しなければならないと押井は考えた。

 押井は「鳥」、「魚」、「犬」という三つのモチーフを頻繁に使用し、また意味ありげに漢字をはじめとする文字記号を作品に配置している。このような演出は観客に解読させるためである。言い換えれば、表層的な物語の進行にとってのノイズ、裂け目として画面内に配置された動物や文字のモチーフは、誤読を読ませる契機である。ヴァルター・ベンヤミンはアジェによるパリの街路の撮影について議論し、写真はある特定の意味で受容することを要求しており、「写真を観る者はそれらの写真へといたるある特定の道を探さなければならないと感じるのだ」*9と論じた。類似した結論は押井映画における意味不明の記号の氾濫にも見出す可能性がある。つまり、押井作品における大量に出現した動物や文字や彫刻などのモチーフは半強制的に観客にそれらの空虚さ、すなわち内容やシニフィエの不在へといたるある特定の道を探せるのではないだろうか。水面上の物語と関係なく、演出家の意図を超えた解釈を獲得するためにノイズとして配置されたモチーフと、意図的に漠然のままに残されたメッセージに誤読を招きたいという動機が包み隠されている。このような映像の言語的多義性から生じた「解釈の多様性」が押井映画における風景という経験の第一の次元である。

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 また、風景の主体、すなわち建築とその内部空間について、押井は「盤石のように定位された空間は物語を支える上で必須であるだけでなく、様式や質感、意匠といった要素がその本来の機能を果たすための絶対条件であり、アニメの映像表現に臨場感をもたらし、必要とあらば、特異な世界観を実現させる原動力ともなる」*10と解説した。そこで現実に存在する建築・都市空間とその細部が徹底的に活用されたのである。田中純は『天使のたまご』を取り上げ、「現実に存在するフランスの地方都市を世界設定の端緒としたことによって、そこに堆積されていた歴史的時間もまたアニメーションの中に忍び込み、パリのパサージュと通底する商品世界の幻想が紡がれたのだろうか。」*11と論じた。このような的確な位置関係と、現実のロケ地から取り込んだ背景美術の細部に沈殿した歴史的時間によって、空間形成以前のあるパースペクティブが都市風景の構成によって再確認され、そしてこのパースペクティブに生じた臨場感が都市生活のリアリティを提供した。これは、押井映画における風景という経験の第二の次元である。

 さらに、このような風景の視覚表現の基盤とされたのは、観客の深読みが必要とされない、潜在的に機能する視覚的無意識である。この視覚的無意識を実現するには三つの方法が考えられた。

 第一に、背景美術の隅々に線と色彩によって累積されたディテールの密度はカット内に圧倒的に多い情報量を提供し、ワンカットの時間に観客が処理可能な限度を超えることによって、実写に近づく。これは同時に建築物の質感表現を可能にした。そのために、実在する景観をめぐる考察、「イメージハンティングの旅」を踏まえた美術設計や画面構成は不可欠である。第二に、絵を描くということそのものにおいて、偶然性を求める。『ビューティフルドリーマー』にはカビの生えた部屋のシーンがある。その部屋の内部の美術を描くとき、美術監督の小林七郎はデカルコマニーやフロッタージュといった技法を用いて心理的な効果を引き出そうとしている。具体的に言えば、「紙の上にジャブジャブの絵具を置いて、乾いた紙を押し付けてはがす。すると紙面に凹凸が出ます。それを二度三度と繰り返しています。紙のざらつきを生かす形でカビの生えた部屋のイメージを作りました」*12ということである。つまり無意識の状態で作り出され、完全に人工の産物でありながら制御しきれない偶然性を内包した絵の表現が求められた。第三に、メディアのズレとそのズレに生じた違和感を利用する。アニメは2Dと3Dのズレからはじまるという上野の議論のように、デジタル技術をアニメ制作の現場に導入した先行者の一人である押井は積極的に現実写真や3DCGなどの要素を作品に取り入れている。それはつまり3Dあるいは現実写真の質感を持つ背景とセルであるキャラクターのあいだに意図的に裂け目を置き、バランスを崩して特別な効果をもたらすということである。

 まとめて言えば、実写並みのリアリティを持つアニメ映像を作ろうとしている押井は、意図して表層的な物語の停滞を契機に、風景を作り出した。背景美術の細部における膨大な情報量に含まれた「静的視覚的無意識」を基盤にした押井のアニメ世界の視覚的特殊性は、パースペクティブの獲得により的確な空間位置・奥行きにより生じた極度な臨場感=リアリティにある。さらに、多義の記号・モチーフは映画的映像に対して不可欠である過剰な解釈の多様性を提供した。

 

 

 

 架け橋=レイアウトシステムについて

 アニメにおける身体について、今井隆介は声の機能の視座で考察した*13。今井は伊藤剛風景と身体との関係性を論じた研究がいくつかあげられる。例えば加藤幹郎は新海誠作品を取り上げ、アニメにおける風景と身体の溶融を論じた*14。また、上野俊哉は押井作品における風景の顔貌化について論じ、街中に貼られたポスターの顔は「社会性やコミュニケーション空間の消失点」、「様々な意味を飲み込むブラックホール」*15と考えた。しかしこれらの議論は身体を言及したにもかかわらず、やはり風景描写に注目し、風景そのものにおける顔や感情表現をめぐる問題を扱っている。

 押井作品において、視覚表現の次元で風景と身体の関係性を理解するには、レイアウトシステムにおける階層構造を理解しなければならない。この記事の読者にとって説明するまでもないが、アニメにおけるレイアウトとは原画の設計図、または画面構成の意味である。レイアウト工程は1970年代に高畑勲と宮崎駿によりアニメ制作に導入された。実際の原画作業に入る前に、まず、レイアウトマンが画面における背景と人物の位置関係ならびに人物の演技や動きを指示しアニメーターに伝える。この段階で描かれた原画と背景美術の参考図がレイアウトである。演出家はレイアウトシステムによって画面全般にわたる視覚表現をコントロールする。押井にとって、「ロケハンという妄想の旅で獲得した原風景・一次現実を臨場感をもって再構築し、現実を凌駕する二次現実」を成立させることが、アニメ演出の醍醐味がある。「不要な要素を排除し、必要な意匠を加え、色彩、エフェクト、カメラワークなどで視覚的に補完し、必要に応じて動画を加えることにより時間を操作しフレーム内に夢想した情景を自在に作り出す」という一連の作業に、「アニメする」という行為の内実が凝縮されている。

 そして、レイアウトはこの一連の作業の起点にして終点であり、演出家の大きな武器である。この武器の威力を最大限発揮できる演出において、いかなるアングルで、レンズとカメラワークで構図を決定するか、それは任意ではなく、必ずある種の意図に従って、言い換えればある種の必然性に導かれていると押井は考えた。そこに内在する理論的整合性を見出したことは、日本アニメ史における押井の最大の功績と言える。押井は『天使のたまご』の制作中、美術監督の小林七郎の仕事にレイアウトの必要性に気づき、のちの作品においてレイアウトシステムを改良し、画角の広さやレンズ距離まで厳密に規定することにより、映像の質を大幅に向上させ、時代を超えたアニメ映像を実現させた。

 押井は、レイアウトを近景・中景・遠景の三つの領域に分け、それぞれキャラクター・世界観・秘められた物語と対応させた。この分類の根拠はアニメの物質構造にある。つまり背景用紙(世界観)にセル(登場人物)が載せており、背景用紙の奥にスタッフが誰も描こうとしない、故に演出家の抽象度の高い無意識(秘められた物語)が展開できる。飛行船のそばに飛んで都市を俯瞰する鳥の群れや壁面に泳いだ巨大魚の影など要素はこの無意識の領域に属する。したがって前述で考察したように、ここで押井が考えた遠景の無意識が実は中景・背景美術、あるいは建築空間が中心になった風景の領域に侵入し浸透しており、互いに条件となりつつある。

 これを踏まえると、近景・セルで描かれたキャラクター作画の領域にもこのような無意識の侵入、あるいは物理的仕組み・手段により生じた心理的奥行きが存在するのかどうかを検討する必要がある。*16

 

身体=作画について

 

 押井は鷲田清一的な身体観念を抱えている*17。これまでは押井の思考を風景というキーワードをめぐって考察してきたが、2004年に公開し押井作品の集大成と評価された『イノセンス』において中心的なテーマは身体、厳密にいえば現代都市における身体の不在である。

 斎藤環は押井の議論を踏まえ、精神分析の視座で、ハンス・ベルメールによる球体関節人形の言語的に分節した身体と『イノセンス』における人形のモチーフの通底性を考察した。斎藤は言語化され「寸断された身体」は去勢されたがゆえによりリアルな身体性を有し、人形の身体は関節において解体されうる可能性に脅かされつつ、生身に近いリアリティを獲得すると指摘したうえで、押井によるレイアウトの階層構造などの言説に注目し、リアリティとはフレームの切り替わりあるいは重ね合わせることに生ずる効果だと主張した。斎藤の主張は厳密にいえば押井の議論に沿っていないところがいくつか指摘できるが、ここでは人形の寸断された身体・リアリティを再考したい。実際のところ、押井作品における人形というモチーフの出現は、『イノセンス』ははじめではない。1989年に公開した『御先祖様』における登場人物は、人形劇のような身体を持っている。これらの登場人物を創造したクリエーターは、キャラクターデザイン・作画監督を担当したうつのみや理である。仮に天野喜孝、名倉靖博、小林七郎の参加がなければ、最初から『天使のたまご』という異色作が成立できなくなるように、うつのみや理を除けば、『御先祖様』という奇妙な作品もまた不可能であるように思われる。

 田中達之はこうして『御先祖様』におけるうつのみやの仕事を評価した:

 …あれ以降、アニメの表現の次元がひとつ上がったと思う。俺、うつのみやさんはまだまだ過小評価されていると思いますね。アニメに限らず、いわゆるアニメ絵と言われるマンガのスタイルも、ほとんど、うつのみやさんのあの頃の仕事がなければ、今とは全く違ってたと思いますよ。今から見ると、その間接的な影響下の作品が現在の主流なんで、その辺が分りにくい……、というのはパイオニアの宿命だと思いますけど。立体の考え方とか、光の表現方法とか、その後出た作家でどこにも影響を受けてない人を探す方が、難しいと思いますね。動きの話でも、爆発や、派手なアクションだけじゃない、日常芝居も含めた「演技」という方向に、アニメーター達の興味を目覚めさせた最初の作品じゃないかと思ってます。

 さらにもはや言うまでもなく、これまで押井作品における作画をめぐって議論するとき多く言及された西尾鉄也の作画も、ある意味でうつのみや作画の延長線上にあるということを指摘することができる。では、うつのみや作画の特徴、独創性は何か。例えば、北久保弘之はうつのみや作画を語るとき「『わんぱく王子の大蛇退治』の頃の森康二さんのキャラクターを『ひょっこりひょうたん島』みたいに人形劇風に動かす」と形容したように、『御先祖様』だけでなくうつのみやの仕事を確認するとわかるように、極めて簡潔で、人形の関節を持っているように見えた絵柄は彼の独自の特徴である。そして、その絵柄にはある必然性が秘められている。それは「リアルな動きの意図」である。斎藤が論じたように、寸断され、人形のような身体を描いているうつのみやは、まさにリアリティを求めている。しかし言語化された身体のリアリティという以前に、うつのみやが求めたリアリティ、そして彼の仕事を通して「キャラクターの近景」に侵入した無意識は、すでに別の形で存在している。それは、無意識の動きに対する意識である。そして、うつのみやによる特徴的な絵柄は、「無意識の動き」を再現し、リアリティをもたらすことに不可欠であり、その意図によって創造されたのである。

 人間がカメラを通じて既知の運動に未知の要素を発見する過程について、ベンヤミンはこうして論じた:

…大雑把にではあれ、人々がどういう歩き方をするか説明できるというのはごくあたりまえのことだ。しかし、足を運ぶときの何分の一秒かの姿勢については、何もわからないにちがいない。ライターやスプーンをつかむ動作は、大雑把にではあれ、すでによく知っている。しかしその際、手と金属のあいだでどのようなことが起こっているのか、ましてやそれがわれわれのその時々の気分や状態でどう ちがってくるのか、ほとんどわからない。…心理分析によって衝動における無意識を知るように、われわれはカメラによって視覚における無意識を知るのだ。」*18

 類似した論述が多数されている。例えばJordan Schonigは、ロベール・ブレッソンによる映画における習慣的身ぶり(habitual gestures)についての発言を引用し、『ウンベルト・D』と『少女ムシェット』を取り上げ、戦後欧州映画界における習慣的身ぶりの演技とリアリズムとの連結を考察した。また、蓮実重彦は「原爆女優」として有名なリタ・ヘイワースの無⾃覚かつ無責任に演じられる⼤胆な⾝ぶりと「フィルム・ノワール」の精髄とされる「⿊さ」との関係性を論じ、⾝体的特徴が⼈⼯的なものでありながら統御されがたい流れを⽣み出したと論じた。

 日常生活において人間のほとんどの動きは明確な目的を持っていない。一方、アニメにおいて、現実運動を再現することはアニメーターの技量に厳しく、コスト削減などの考慮で、意識していない動きを削ぎ落すのは常識で、アニメ表現の基礎であった。その結果、ワンカットにおいて、動いているキャラクターが一つのテーマ、一つの単純化された目的しか持たず、画面内に示されたのは登場人物というよりはむしろ動きの記号であった。前述した、役者の無意識の身体や動きに対する展示はおそらく実写がアニメに対する特権的なものとして思われた。すると、画面に示されたすべてが人工的に造形された産物であるアニメはもし実写映画的なリアリティを持つ映像性を獲得しようとするなら、膨大な「静的視覚的無意識」を基盤にしたうえ、複雑な隠喩や換喩でメッセージの伝達経路を遮断し、風景の言語的多義性に頼るにしかないように思われる。しかし、アニメの場合、運動イメージ、つまり作画の次元、キャラクターの領域において無意識運動、すなわち「動的視覚的無意識」を表現する可能性が実在する。それをはっきり意識したのはうつのみや理である。

 では、それはいかに実現されたのか、人形のような可動性の高い球体関節に寸断された身体という絵柄はいかにして無意識の動きを表現し、その表現におけるリアリティの意図・必然性を内包したのか。ここではフランスの哲学者のアンリ・ルフェーヴルの空間論の概念を参照し、アニメの本質的かつ物質的特徴、すなわち目的性を説明する。

 精神分析の理論を批判的に吸収し、鏡を絵画と比喩したルフェーヴルの理論を引用することは、宮川や斎藤の議論を踏まえ、アニメの風景・建築、作画・人物(身体)、そしてスクリーンや紙面という平面に通じる表象過程をめぐる問題系を考えようとした本論において必然性がある。ルフェーヴルによれば、建築や絵画芸術において、空間は三つの次元で把握される。それは空間を提起しながらその空間を前提とする空間的実践、そして思考される空間である空間の表象、および映像や象徴の連合を通して直接に生きられる空間、つまり表象の空間である。ルフェーヴルは中世ヨーロッパにおける宗教画、神学思想と遠近法や都市設計のつながりを論じたうえで、知覚される空間、思考される空間そして生きられる空間の連結を考察した。このような空間の三重性は身体を媒介とする。わたしの最初の空間はまずわたしの身体である。ついでそれはわたしの身体の片割れあるいは身体の他者であり、鏡の像であり影である。空間は一方におけるわたしの身体に触れ、しみこむものと、他方におけるほかのすべての身体とのあいだの、移ろいゆく交差点なのである。

 アニメの場合、設計図として理解されるレイアウト・原画における絵画空間は空間の表象、つまり思考される空間にほかならないが、その設計図を成立させる根拠は、アニメーターと観客の表象の空間、生きられる空間における視覚的経験にある。ルフェーヴルによれば、風景の力が生じてくるのは、その風景が鏡・幻影として、鑑賞者に創造能力の幻想的かつ現実的な映像を差し出すということにある。主体(自我)はこの驚嘆すべき自己欺瞞の最中にこの映像を自分のものにする。一種の「絵画」である鏡における「幻影の効果」によって、生産的な空間の表象である絵画空間が経験された表象の空間に移り変わり、それを通して観客とアニメーターの身体と、さらに創造され、想像された登場人物の身体とが交差する。「無意識の演技をやる」ことはうつのみやの試みであり、功績である。うつのみやの作画により、アニメという表象メディアの知覚の限界が拡張されたのである。*19

 アニメ制作は原理上、目的論的であり、作画も例外ではない。動きや位置関係や感情表現に対する構想、すなわち、動きや空間表現は原画作業に入る前にすでにアニメーターの脳ならびにレイアウトに計画された。そしていわゆる「無意識の動き」もしくは「物語の展開に従い、演出家に要求された動きとは別の動き」もまた、指定された動きの表層の下に隠れたより一層深い目的である。うつのみやは、そうした重層化した動き・目的を作画で表現した。従来のアニメ表現における一つの単純化された目的しか持たない作画と違い、『御先祖様』をはじめ、キャラクターの動きが一気にリアルに見えた。それは、複数の目的を持つキャラクターの運動は、ワンカットの時間に観客が処理できる情報量の上限を超えたからである。前述した人形の分断された身体から生じたリアリティはそのような複数目的の重層化のメカニズムを解明してはじめて作画の次元・キャラクターの領域で理解される。つまり、うつのみやの絵柄はなぜ人形のように手も足も頭も指も分離されたのかという問題の答えは、キャラクターの身体の各パーツがそれぞれ違った運動の目的を担っていることにある。

 おそらくうつのみやは、自らの現実運動をイメージする能力の極限を意識し、人間の運動を各パーツのベクトルのレベルに分解し、それぞれの方向と速度を持つパーツの動きの組み合わせによって無意識を引き出し、よりリアルな運動を求めているように思われる。加えて、彼はアニメにおける様々な人体表現を考察し改良した。例えば、光源の方向を考慮して影の方向と効果を調整し立体感を表現する。また、従来の高速運動における残像表現の手法を改善し運動の方向性を強調する。さらに、フォルムの平面的運動ではなく、マッスルの原理を考えて動きの自然性を追求する。これらの表現手法の多様性によって、簡潔にデザインされたキャラクターの動きは、それまで考えられないほど複雑になった。

 このような複雑な運動性や多様な立体、照明表現、そしてこれを導く多重な目的において、うつのみや作画の本当の価値が見える。意図的な複雑化・立体化によって、登場人物の動きや演技が「現実の人間の深さ」、あるいは一種の「物理的・心理的奥行き」を持つようになったのである。井上俊之が彼の作画史観において、うつのみやを立体感の回帰点に位置づけた。それは立体表現の成熟化を意味しながら、表現手段の多様化を指しているのではないか。そして何より重要なのは、無意識の動きを描写することによって、登場人物の空間という観客が自分の身体という鏡を通して想像した「生きられた空間」がある種の無意識の物理的奥行き・心理的奥行きを獲得しはじめたことである。

 かつて手塚治虫がマンガ表現に包み隠された身体性を発見し、その中で戦後マンガ史が生み出されたように、平成元年におけるうつのみやの発見はアニメ作画新時代の濫觴を意味している。そこからアニメにおける「登場人物の身体」の感性が確実に変容しはじめた。この意味で、うつのみや理以降、アニメにおいてキャラクターがはじめて「登場人物」になったといっても過言ではない。なぜならそれらの「登場人物」が無意識に動いている身体という空間を獲得したうえで、絵画空間、作品空間の中の身体を獲得する可能性が掲示されたのである。

 

 

 

結びにかえて

 見ているのに知覚されていない建築の細部と、動いているのに知覚されていない身ぶり。静止・運動問わず、単位時間に処理しきれない視覚的情報量の積み上げにより、すべてが人工的産物であるアニメにおいて、人間の知覚の外にある無意識が表現・暗示された。また、意味ありげに撒き散らした符牒は表層の物語の展開のノイズであるように、重層的動きや多様な立体・照明・速度表現もまた規定された動きという単純化された目的にとってのノイズである。

 こうして、押守作品において、「風景―美術背景=過剰な視覚情報・空間位置の奥行き・解釈の多様性」と「登場人物の身体―作画=運動の複雑性・心理的奥行き・表現の重層性」という対になる概念群は物質的かつ思想的に通底しているように考えられる。

 また、視覚的状況としての無意識の厳密な定義などについて色々説明しなければならないところが多いと思うが、もう疲れたので筆を擱くことにします。最後までお読みいただき感謝申し上げます。

 

 

 

 

 

 

*1:松田政男『風景の死滅』や蓮實重彦『表層批評宣言』を読めばわかるだろう。

*2:押井守、笠井潔『創造元年1968』。

*3:閉塞的状況に抑圧機関として思われる身体を佐藤哲也が論じたが、佐藤の議論は物語論であり本論の注目点とは違っている。

*4:押井守『すべての映画はアニメになる』、237-239頁。

*5:同上、337頁。「ダレ場」とも言う。意図して沈静化したシークエンスである。また、本段落は東浩紀『セカイからもっと近くに』を多数参照。

*6:押井守『P2演出ノート』、14頁。

*7:同上、49頁。

*8:押井守、伊藤和典、上野俊哉「映画とは実はアニメーションだった」『ユリイカ』、1996年8月号、青土社、63頁。

*9:ヴァルター・ベンヤミン「技術的複製可能性の時代の芸術作品」による。

*10:押井守『イノセンス創作ノート』、71頁。

*11:田中純『イメージの自然史』、62-63頁。

*12:小林七郎『アニメ美術から学ぶ《絵の心》』、65頁。

*13:今井隆介「声と主体性:アニメーションにおける声の機能」『ポピュラーカルチャー研究 : ポピュラーカルチャー研究会報告書』Vol.1 No.4、京都精華大学表現研究機構、2008年、34-49頁。

*14:加藤幹郎「風景の実存 新海誠アニメーションにおけるランドスケイプ」『アニメーションの映画学』、加藤幹郎編、臨川書店、2009年、111-149頁。

*15:上野俊哉『荒野のおおかみ』、58頁。ちなみに上野の議論はエドガール・モランによるポスタースターの顔に関する議論を想起させる。

*16:前掲書、『イノセンス創作ノート』を多数参照。

*17:これについて押井守、最上和子『身体のリアル』を参照。

*18:ちなみに押井も「ライターで火をつける」ときの演技をあげて理想的な作画を語っている。また、佐藤守弘は風景の無意識から芸術鑑賞における無意識を言及した。

*19:ルフェーヴル『空間の生産』多数参照。